This is an essay written for the Cornell Hotel School Alumni Magazine in support of Japan, shortly after the earthquake. The Japanese text follows here (and thanks to Yuya Kiuchi for the translation).
日本の姿:忍耐について
グレッグ・ストーラー 1991年卒
私はMBA(経営学修士)プログラムの授業をボストン・カレッジで数多く教えてきた。それを通して学生と一緒にアジアを訪問し、現地企業でコンサルタントを行ったり、アジアの様々な国にある企業を見学した。数年に1度は学生達と日本を訪れており、最近では2009年に日本の地を踏んだ。今年も日本に戻ることを楽しみにしていたが、3月11日に起きた地震、津波、そして原発問題といった想像を絶する状況を踏まえ、東京以外の都市を訪問先として選ばざるをえなかった。
日本と私の関係は20年に渡る。今回の災害は仕事だけではなく、個人的にも大きな影響力を持つ。友達のみならず、日本のホテル関係者、コーネル大学関係者、そして日本を通して知り合った人々のことを思わずにはいられない。日本の文化とその勤勉さを知る者として、日本が将来的に復興すると信じている。しかし今は何より、日本の人々が健康で、無事に、安全な日々を過ごしていることを希望するのみだ。
日本に恋をしたのは、コーネル大学の1年次に遡る。外国語履修要件を満たす為に父が日本語を薦めたのだ。日本が経済のスーパーパワーとなることを見込み、ある程度日本語の知識を持つことで数年後に控えた就職が容易になると考えた。18歳当時の私は熟考することもなく、「日本語でもまあいいか」という程度に考えた。
何気なく始めた日本語は、すぐにある意味で人生の難題として私の前に現れた。文法は英語と全く逆さま。漢字を暗記する時間など、どこにも無かった。1年目は何とか終えたが、2年次の前期終了時にはこれまでになくひどい成績しか残せなかった。壁に貼られた漢字を見つめながら、ここは潔く諦めるしかないとすら考えた。
ホテル経営学を学んでいた大学の友愛クラブの友人から、SHA (School of Hotel Administration) の授業を履修して、他の学術分野に目を向けてみることを進められた。これが役に立った。SHAの授業は実に興味深く、当時の世界経済の影響もあって、多くの財政学の授業は日本に頻繁に言及した。その頃には、日本語の文法も少しずつ理解できるようになった。2年次末には「B-」を何とか貰うことができ、喜んだものだ。
SHAの卒業要件を満たすためには、ホスピタリティーの分野で十分な経験を積むことが必要だった。夏休みには実家に戻り、ボストン・マリオットのレストランでマネージャーとして働く機会を得た。ある日、自宅の部屋を掃除していると、日本語の本が本棚から落ちて、私の頭に当たった。その衝撃と言うわけではないだろうが(!)、ある考えが思い浮かんだ。その夏を利用して、日本語の読み書きを学ぶことにしたのだ。
翌年、SHAのWilliam Kaven教授から日本海側にある温泉旅館でインターンとして働いてみて、日本の文化を体験するのはどうかと話を頂いた。ホテル百万石と呼ばれるこの旅館において、日々の業務が非常に日本的であることが私の目を引いた。「働く為に生きる」という日本の文化において、休暇滞在は24時間にも満たない。同じ部に属する45人から50人や、より小さな科に属する従業員が団体客としてホテルに到着するのは午後の早い時間だ。その日の夕方は思い思いに食べ放題や飲み放題を堪能し、翌朝ホテルを出発する。東京や京都、もしくはその他の都市に戻ると、場合によってはそのまま職場に向うのだ!
私の仕事は単純で明確だった。それは「言われたことをしろ!」というもの。具体的にはパーティー会場の設営と片付け、グラスを洗うこと、ナイフやフォークの整頓だ。
日本人マネージャーの立場に立ってみると、これこそ新入社員、特に夏限りの下っ端インターンに与える一番の仕事だった。その目的は、実際に何か複雑な業務をするというより、個人の性格や考えを知り、仲間との雰囲気やマネージメントチームを知ることにあった。
日本には「出る杭は打たれる」という諺がある。これは創造性を否定するのではなく、個人より集団の重要性を強調する意味で使われる。アメリカ人であることに誇りを持ち、日本にいるときでも自分らしさを強調し、新しい視点を話し合いに提供できる機会を私は心から楽しんでいる。しかし、それは文化的に適切な方法で行われなければならない。
日本人は集団で仕事をすることの力を理解している。だからこそ、現在の状況から日本が復興できることを信じているのだ。この集団的責任という考えが、震災の影響を受けた地域で略奪行為が発生していないことの説明でもある。日本以外の社会では、残念ながらその様な状況が起こることは驚くべきことではない。しかし日本において、他人の上にのし上がって自らの幸せを追求することは考えられない。
1991年12月にコーネル大学を卒業し、東京にある帝国ホテルで、アメリカ人として初めてフルタイムのスタッフ(正社員)として雇用された。このホテルには100年以上の歴史があり、日本的サービスの典型とみなされていた。夏の間に強固な人間関係を日本で構築し、かつては理解し切れなかった文化を真の意味で理解し始めたことで、新しい日本の組織に加わる過程が容易になった。
私達はまず、オリンピックの開催された長野県市近くにある上高地帝国ホテルに異動となった。そこでこの小さなホテルで「業務を行え」というのだ。しかし「業務を行う」ということが何を意味しているのかを理解することすら難しかった。
1990年代初め、日本企業は毎年100人以上の新入社員を雇用していた。その多くは高卒の社員だった(日本の高等学校はアメリカの4年制大学のシステムと類似しており、高卒の資格はアメリカより重要視されている)。私は23名いた大卒グループに属していた。その為、私達は将来的に経営の上層部に出世すると見込まれていたのだ。
日本語も上達していたので、その理解にはそれほど困らなかった。それより文化的な違いが、日本人従業員の中にも存在していることに気づき始めた。昇進できるか、どうすれば昇進が可能か、もしくは昇進までどれくらい掛かるかなどは関心外だった。私の昇進は、除雪、トイレ掃除、1人で夜中のベルマン業務をすることから始まった。しかし、日本人従業員を含め、皆同じ土俵に立っていることを感謝した。
夏が終わると、東京のホテルに戻ることとなった。そこで私は「昇進」され、ホテルで1番のレストランで (Les Saisons) 働くことになった。しかし食材を移動するのが仕事で、お客様と話すことは許されなかった。それだけではなかった。磨いたグラスは24のグラスが収納できる棚にしまうことになっていたのだが、私がそれらのグラスを磨き終わると、レストラン内の装飾を照らす為に使われる強力な照明を使って、私の上司がグラスの点検をするのだ。もしも1つでも染みが残っていれば、24のグラス全てを磨きなおさなければならなかった。
毎夜、上司のために食事を作り、その片づけをし、ホテルの地下には寝床の準備すらしなければならなかった。私達は1週間のうち2晩をカプセルベッドで過ごした。それは6フィートの長さで、性別で分けられた円筒型の寝床が縦に3段、横に24列並んでいるのだ。翌日の起床後、お客様のために食事の準備が待っていた。6名からなるチームがグループを構成していた。24時間のシフトが終わると、チームとして飲みに行くことになっていた。例えそれが朝の11時であってもだ。これが日本流だ。
トレーニングの18ヶ月目になると、やっと私が満足できる昇進の機会に恵まれた。市場開発部で外国人初の( 販売企画部で)マネージャーになったのだ。どうすればより多くの外国人のお客様を引き寄せることができ、どうすれば宴会場の利用を増やせるか考えることが職務だった。
トレーニングの最終日を迎えた。私を下っ端としてあしらったマネージャーやスタッフすら、私の成功を祝って深々とお辞儀をして下さった。数ヶ月前にはお客様と話をすることすら許されていなかったレストランにおいて、私がお客様のために必要と考えたあらゆるものが、すぐにどこからともなく現れた。ついにホテルの一部になりきれたと実感した。
1990年代中盤、ボストンに戻ることになると、日本株式会社と呼ばれた日本経済は急速に勢いを失っていた。中国とインドがその力の急速に伸ばし、かつて見本とされた日本の経済政策はデフレ、不良債権、経済停滞を引き起こしていた。少なくともそう考えられていた。
マクロ経済の観点から考えると、これらの統計は現実的なもので、無視するわけにはいかなかった。しかし家庭貯蓄率は他の経済先進国と比較して依然として高く、国民1人あたりのGDPは世界トップ30だった。日本の友人達は悶々とした心を抱えながら、控えめに人生を楽しんでいた。しかし本当に不幸を感じている人は誰もいなかった。
ここ数年、私は日本を訪れる機会に恵まれている。ボストン・カレッジのMBAコースに属する学生を連れて数年に一度日本に戻ると、長期間の定点観測をして写真を撮っているような錯覚を起こす。違いは本棚からアルバムを取り出すのではなく、実際に街中を歩き、人々と話をし、心の中で前回の日本訪問との違いを比較できることだ。
帝国ホテルで働いている頃、毎晩タクシーが文字通り波のように最終電車を乗り過ごしたサラリーマンを飲み込んでいた。30分の乗車で200ドルを支払うことは当たり前だった。ここ10年でレイオフやリストラが起こり、この様な深夜タクシーの需要は低下した。2009年に日本を訪れたとき、タクシーの波は見られなかった。
約5年前、MBAの学生と東京から2時間離れた所にある工場を訪問していた時の事だ。その時初めて、高速道路のガードレールに錆ができているのを見た。かつて、企業から送られてきた日本人の学生がMBAプログラムには当たり前のようにいた。しかし今では中国、インド、その他のアジア諸国からの学生にとって代わられている。そして2011年初め、日本は世界第2の経済大国としての地位を中国に譲り渡した。円高も急速に進んでいる。
3月11日に日本を襲った地震と津波は、悲劇ということばではその様子を表し切れない。その極限の影響下で日の出る国は経済的、環境的危機を迎えている。その影響は世界規模だ。
原発問題がすぐに収束し、避難所で過ごす人々が自宅に戻り、あるいはよりまともな生活を送れることを願ってやまない。何ヶ月にわたり、これらの人々のためを考え、何をすべきか思考し、時間を過ごすことが何より求められる。
しかしいつかは復興を考えなければならない。日本は復興できるだろうか? 日本はどう立ち直るのか? 1990年代の失われた10年がここでもその残影をちらつかせるのだろうか? しかも今回は、インフラに関わる、より深刻な問題を提起するだろう。言い換えれば、「かつての」日本は戻ってくるのだろうか?
日本の復興の道が長く、困難に満ちたものであることは言うまでもない。しかし多くの友人、他のビジネスオーナー、経済学者、学者などと違って、私は日本の強さを信じている。日本への想いに惑わされること無く、MBAの学生がビジネスプランを考えるときのように客観的に日本の姿を考えても、再び日本の経済が勃興することに疑いの余地は無い。
「協力すればより多くを達成できる」という考えは日本の心に深く根ざしている。人々の健康状態さえ回復すれば、誰もが手を取り、企業は協力体制を確立し、震災の影響を受けたビジネス、地域、経済の復興に1歩1歩取り掛かる様子が目に見える。
日本の抱えた傷を癒すのに時間が掛かるのは理解している。しかし20年前に購入した日本製品は、未だに問題なく使うことができる。そんな製品を生み出す文化の力を無視することはできない。私の子供たちの誕生日を覚えていてくれて、たまにメールをくれたりするのは、グラスの染み1つすら許さなかったボスや同僚達だ。経済学者がどう分析をしようと、忠誠、質、忍耐、勤勉には、何かを可能にする力がある。
頑張りましょう!
グレッグ・ストーラーはSHAを1991年に卒業し、ハーバード大学ビジネススクールのMBAプログラムを卒業した。ボストンに本拠地を持つ不動産会社のオーナーであり、ボストン・カレッジの経営学講師を務める。成功の基礎はコーネル大学で得たサポートと教育にあると考えている。
日本の姿:忍耐について
グレッグ・ストーラー 1991年卒
私はMBA(経営学修士)プログラムの授業をボストン・カレッジで数多く教えてきた。それを通して学生と一緒にアジアを訪問し、現地企業でコンサルタントを行ったり、アジアの様々な国にある企業を見学した。数年に1度は学生達と日本を訪れており、最近では2009年に日本の地を踏んだ。今年も日本に戻ることを楽しみにしていたが、3月11日に起きた地震、津波、そして原発問題といった想像を絶する状況を踏まえ、東京以外の都市を訪問先として選ばざるをえなかった。
日本と私の関係は20年に渡る。今回の災害は仕事だけではなく、個人的にも大きな影響力を持つ。友達のみならず、日本のホテル関係者、コーネル大学関係者、そして日本を通して知り合った人々のことを思わずにはいられない。日本の文化とその勤勉さを知る者として、日本が将来的に復興すると信じている。しかし今は何より、日本の人々が健康で、無事に、安全な日々を過ごしていることを希望するのみだ。
日本に恋をしたのは、コーネル大学の1年次に遡る。外国語履修要件を満たす為に父が日本語を薦めたのだ。日本が経済のスーパーパワーとなることを見込み、ある程度日本語の知識を持つことで数年後に控えた就職が容易になると考えた。18歳当時の私は熟考することもなく、「日本語でもまあいいか」という程度に考えた。
何気なく始めた日本語は、すぐにある意味で人生の難題として私の前に現れた。文法は英語と全く逆さま。漢字を暗記する時間など、どこにも無かった。1年目は何とか終えたが、2年次の前期終了時にはこれまでになくひどい成績しか残せなかった。壁に貼られた漢字を見つめながら、ここは潔く諦めるしかないとすら考えた。
ホテル経営学を学んでいた大学の友愛クラブの友人から、SHA (School of Hotel Administration) の授業を履修して、他の学術分野に目を向けてみることを進められた。これが役に立った。SHAの授業は実に興味深く、当時の世界経済の影響もあって、多くの財政学の授業は日本に頻繁に言及した。その頃には、日本語の文法も少しずつ理解できるようになった。2年次末には「B-」を何とか貰うことができ、喜んだものだ。
SHAの卒業要件を満たすためには、ホスピタリティーの分野で十分な経験を積むことが必要だった。夏休みには実家に戻り、ボストン・マリオットのレストランでマネージャーとして働く機会を得た。ある日、自宅の部屋を掃除していると、日本語の本が本棚から落ちて、私の頭に当たった。その衝撃と言うわけではないだろうが(!)、ある考えが思い浮かんだ。その夏を利用して、日本語の読み書きを学ぶことにしたのだ。
翌年、SHAのWilliam Kaven教授から日本海側にある温泉旅館でインターンとして働いてみて、日本の文化を体験するのはどうかと話を頂いた。ホテル百万石と呼ばれるこの旅館において、日々の業務が非常に日本的であることが私の目を引いた。「働く為に生きる」という日本の文化において、休暇滞在は24時間にも満たない。同じ部に属する45人から50人や、より小さな科に属する従業員が団体客としてホテルに到着するのは午後の早い時間だ。その日の夕方は思い思いに食べ放題や飲み放題を堪能し、翌朝ホテルを出発する。東京や京都、もしくはその他の都市に戻ると、場合によってはそのまま職場に向うのだ!
私の仕事は単純で明確だった。それは「言われたことをしろ!」というもの。具体的にはパーティー会場の設営と片付け、グラスを洗うこと、ナイフやフォークの整頓だ。
日本人マネージャーの立場に立ってみると、これこそ新入社員、特に夏限りの下っ端インターンに与える一番の仕事だった。その目的は、実際に何か複雑な業務をするというより、個人の性格や考えを知り、仲間との雰囲気やマネージメントチームを知ることにあった。
日本には「出る杭は打たれる」という諺がある。これは創造性を否定するのではなく、個人より集団の重要性を強調する意味で使われる。アメリカ人であることに誇りを持ち、日本にいるときでも自分らしさを強調し、新しい視点を話し合いに提供できる機会を私は心から楽しんでいる。しかし、それは文化的に適切な方法で行われなければならない。
日本人は集団で仕事をすることの力を理解している。だからこそ、現在の状況から日本が復興できることを信じているのだ。この集団的責任という考えが、震災の影響を受けた地域で略奪行為が発生していないことの説明でもある。日本以外の社会では、残念ながらその様な状況が起こることは驚くべきことではない。しかし日本において、他人の上にのし上がって自らの幸せを追求することは考えられない。
1991年12月にコーネル大学を卒業し、東京にある帝国ホテルで、アメリカ人として初めてフルタイムのスタッフ(正社員)として雇用された。このホテルには100年以上の歴史があり、日本的サービスの典型とみなされていた。夏の間に強固な人間関係を日本で構築し、かつては理解し切れなかった文化を真の意味で理解し始めたことで、新しい日本の組織に加わる過程が容易になった。
私達はまず、オリンピックの開催された長野県市近くにある上高地帝国ホテルに異動となった。そこでこの小さなホテルで「業務を行え」というのだ。しかし「業務を行う」ということが何を意味しているのかを理解することすら難しかった。
1990年代初め、日本企業は毎年100人以上の新入社員を雇用していた。その多くは高卒の社員だった(日本の高等学校はアメリカの4年制大学のシステムと類似しており、高卒の資格はアメリカより重要視されている)。私は23名いた大卒グループに属していた。その為、私達は将来的に経営の上層部に出世すると見込まれていたのだ。
日本語も上達していたので、その理解にはそれほど困らなかった。それより文化的な違いが、日本人従業員の中にも存在していることに気づき始めた。昇進できるか、どうすれば昇進が可能か、もしくは昇進までどれくらい掛かるかなどは関心外だった。私の昇進は、除雪、トイレ掃除、1人で夜中のベルマン業務をすることから始まった。しかし、日本人従業員を含め、皆同じ土俵に立っていることを感謝した。
夏が終わると、東京のホテルに戻ることとなった。そこで私は「昇進」され、ホテルで1番のレストランで (Les Saisons) 働くことになった。しかし食材を移動するのが仕事で、お客様と話すことは許されなかった。それだけではなかった。磨いたグラスは24のグラスが収納できる棚にしまうことになっていたのだが、私がそれらのグラスを磨き終わると、レストラン内の装飾を照らす為に使われる強力な照明を使って、私の上司がグラスの点検をするのだ。もしも1つでも染みが残っていれば、24のグラス全てを磨きなおさなければならなかった。
毎夜、上司のために食事を作り、その片づけをし、ホテルの地下には寝床の準備すらしなければならなかった。私達は1週間のうち2晩をカプセルベッドで過ごした。それは6フィートの長さで、性別で分けられた円筒型の寝床が縦に3段、横に24列並んでいるのだ。翌日の起床後、お客様のために食事の準備が待っていた。6名からなるチームがグループを構成していた。24時間のシフトが終わると、チームとして飲みに行くことになっていた。例えそれが朝の11時であってもだ。これが日本流だ。
トレーニングの18ヶ月目になると、やっと私が満足できる昇進の機会に恵まれた。市場開発部で外国人初の( 販売企画部で)マネージャーになったのだ。どうすればより多くの外国人のお客様を引き寄せることができ、どうすれば宴会場の利用を増やせるか考えることが職務だった。
トレーニングの最終日を迎えた。私を下っ端としてあしらったマネージャーやスタッフすら、私の成功を祝って深々とお辞儀をして下さった。数ヶ月前にはお客様と話をすることすら許されていなかったレストランにおいて、私がお客様のために必要と考えたあらゆるものが、すぐにどこからともなく現れた。ついにホテルの一部になりきれたと実感した。
1990年代中盤、ボストンに戻ることになると、日本株式会社と呼ばれた日本経済は急速に勢いを失っていた。中国とインドがその力の急速に伸ばし、かつて見本とされた日本の経済政策はデフレ、不良債権、経済停滞を引き起こしていた。少なくともそう考えられていた。
マクロ経済の観点から考えると、これらの統計は現実的なもので、無視するわけにはいかなかった。しかし家庭貯蓄率は他の経済先進国と比較して依然として高く、国民1人あたりのGDPは世界トップ30だった。日本の友人達は悶々とした心を抱えながら、控えめに人生を楽しんでいた。しかし本当に不幸を感じている人は誰もいなかった。
ここ数年、私は日本を訪れる機会に恵まれている。ボストン・カレッジのMBAコースに属する学生を連れて数年に一度日本に戻ると、長期間の定点観測をして写真を撮っているような錯覚を起こす。違いは本棚からアルバムを取り出すのではなく、実際に街中を歩き、人々と話をし、心の中で前回の日本訪問との違いを比較できることだ。
帝国ホテルで働いている頃、毎晩タクシーが文字通り波のように最終電車を乗り過ごしたサラリーマンを飲み込んでいた。30分の乗車で200ドルを支払うことは当たり前だった。ここ10年でレイオフやリストラが起こり、この様な深夜タクシーの需要は低下した。2009年に日本を訪れたとき、タクシーの波は見られなかった。
約5年前、MBAの学生と東京から2時間離れた所にある工場を訪問していた時の事だ。その時初めて、高速道路のガードレールに錆ができているのを見た。かつて、企業から送られてきた日本人の学生がMBAプログラムには当たり前のようにいた。しかし今では中国、インド、その他のアジア諸国からの学生にとって代わられている。そして2011年初め、日本は世界第2の経済大国としての地位を中国に譲り渡した。円高も急速に進んでいる。
3月11日に日本を襲った地震と津波は、悲劇ということばではその様子を表し切れない。その極限の影響下で日の出る国は経済的、環境的危機を迎えている。その影響は世界規模だ。
原発問題がすぐに収束し、避難所で過ごす人々が自宅に戻り、あるいはよりまともな生活を送れることを願ってやまない。何ヶ月にわたり、これらの人々のためを考え、何をすべきか思考し、時間を過ごすことが何より求められる。
しかしいつかは復興を考えなければならない。日本は復興できるだろうか? 日本はどう立ち直るのか? 1990年代の失われた10年がここでもその残影をちらつかせるのだろうか? しかも今回は、インフラに関わる、より深刻な問題を提起するだろう。言い換えれば、「かつての」日本は戻ってくるのだろうか?
日本の復興の道が長く、困難に満ちたものであることは言うまでもない。しかし多くの友人、他のビジネスオーナー、経済学者、学者などと違って、私は日本の強さを信じている。日本への想いに惑わされること無く、MBAの学生がビジネスプランを考えるときのように客観的に日本の姿を考えても、再び日本の経済が勃興することに疑いの余地は無い。
「協力すればより多くを達成できる」という考えは日本の心に深く根ざしている。人々の健康状態さえ回復すれば、誰もが手を取り、企業は協力体制を確立し、震災の影響を受けたビジネス、地域、経済の復興に1歩1歩取り掛かる様子が目に見える。
日本の抱えた傷を癒すのに時間が掛かるのは理解している。しかし20年前に購入した日本製品は、未だに問題なく使うことができる。そんな製品を生み出す文化の力を無視することはできない。私の子供たちの誕生日を覚えていてくれて、たまにメールをくれたりするのは、グラスの染み1つすら許さなかったボスや同僚達だ。経済学者がどう分析をしようと、忠誠、質、忍耐、勤勉には、何かを可能にする力がある。
頑張りましょう!
グレッグ・ストーラーはSHAを1991年に卒業し、ハーバード大学ビジネススクールのMBAプログラムを卒業した。ボストンに本拠地を持つ不動産会社のオーナーであり、ボストン・カレッジの経営学講師を務める。成功の基礎はコーネル大学で得たサポートと教育にあると考えている。